あらすじ

名画座「テアトル銀幕」は、近くにシネコン建設計画も持ち上がり閉館の危機にさらされている。その常連客でギャンブル依存症の「ゴウちゃん」は、ノート二百冊に映画の感想を書き溜めたほどの映画好きだが、大手開発企業でシネコンの担当課長だった娘の退職にショックを受け家出。何とネットカフェにこもって、娘の映画評を映画雑誌社にメールしていたのだ。その一通のメールが、奇跡の物語の始まりだった。
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作、演出、出演

原作:原田マハ
脚本:高橋正圀
演出:藤井ごう
出演:吉村 直、藤井美恵子、藤木久美子、高安美子 他
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(195回例会)
日時:2021年6月1日18時30分開演、6月2日13時開演
会場:町田市民ホール

作品概要

生身の人間である俳優がその場にいることで、人間の可能性を感じることが出来る。生の舞台芸術に向き合っているのが鑑賞会だと思う。それは『キネマの神様』の作品作りに関わってくる。作品は2008年に原田マハさんが、ギャンブル好きで映画好きの父親に向けて書いた作品であり、父親が亡くなる前に書いたオマージュ。作品には3つの切り口がある。1つは、個人経営の映画館「名画座」が消えていくことに対する追憶。2つ目は、高齢を迎えた人間に何ができるのかということ。3つ目が映画評論の論争。芸術評論活動が弱くなっていることの問題提起があり、脚本の高橋正圀はここに興味を持った。この作品はファンタジーでハートフル系の作品であり、どうやってリアルにするのか、面白い話にするか、客が同じ視点をもって同じ経験が出来るようにと思っている。

◆ 神様と父と (原田ハマ)

私には困った父がおりました。美術書のセールスマンをしていた彼は、家族を東京に残して日本全国をセールスして回っていました。そしてふらりと帰ってくる。まるでフーテンの寅さんです。ある時には、ピカピカの真っ赤な車に乗って登場、家族を驚かせました。またあるときは、気に入っていついてしまった岡山に二階建ての家を借りて家族を呼び寄せ、私にピンク色一色の部屋を見せて「これがお前の部屋だ」と喜ばせました。剛気で、陽気で、少年のような大人。と書けば「すてきなお父様じゃないの」と言われそうですが、そのすべてが競馬で当てたお金や借金で用意したのですから、たまったものじゃありません。砂上の楼閣。そういうものを家族に見せて、無邪気に喜ぶ、あとは野となれ山となれ、なあにまたひとつ賭け麻雀か競馬で当ててやるさ、そういう人でした。が、私はこのどうしようもない父に多くのことを学びました。
子供だった私が欲しいと言えば、どんなにお金に困っていても惜しみなく与えるものが三つ、ありました。一つ目は、本。マンガも雑誌も含みます。
二つ目は、展覧会。どんなに混んでいる展覧会でも連れていってくれました。
そして、三つめは映画。父は無類の映画好きでした。
満州生まれの父は、少年の頃、日本人専用の映画館で観たキートンの喜劇が大好きで、学校でキートンの物真似をして級友に大いにウケたということです。近所に住んでいた中国人の女の子がうらやましそうにしているのをほうっておけず、級友の女子に制服を借りてその子に着せ、日本人専用の映画館に連れていったりもした。大人になってからも、いやなことがあればすぐ映画館に行き、仕事をさぼって映画を見て、家にいてごろごろしているときもテレビで映画。映画を見ない日はほとんどない、というほど、映画を愛する人でした。私が初めて映画体験をしたのは、山田洋次監督の「男はつらいよ」。当時、小学二年生だった私を「映画に行こう」と誘い、国分寺の松竹へ行きました。父とふたりの初デート。あのときの劇場の熱気と興奮を忘れることはできません。本を読む喜びも、美術館へ行く楽しさも、映画を通して幾多の人生を追体験することも、ドラマ作りの面白さも、ぜんぶ、父に入り口を作ってもらいました。私は、家族に迷惑をかける父を憎らしく思いながら、なぜかいつも父のことを考えると涙があふれてくる。ずっと、そうでした。父は、結局、なんだかんだとやかく言われつつも家族に愛され、その心根を神様に愛された人生を送ったのではないかと思います。父と映画のことをどうしても物語に残したくて、十年まえ、父をモデルに「キネマの神様」を書きました。父は、読んで一言、「なんだお前は、何もかもぜんぶ書きやがって…恥ずかしくって知り合いに読ませられないじゃないか」とぶつぶつ。そのくせ、友人知人にせっせと薦めていたといいます。父は、一昨年、天国の住人になりました。このたびの舞台化を誰よりも喜んでいるのは、きっと父です。キネマの神様と一緒に、劇場のどこかで、舞台を見守ってくれているはずです。

◆ 今回はどんな話?(脚本 高橋正圀)

今回ばかりはいくら考えてもすんなり一言にならないのだ。何故なんだろう?そんなに複雑な物語かというとそうではない。むしろ単純といってもいいくらいのストレートな物語である。主人公のゴウちゃんは、御年79才、ギャンブル依存症で多額の借金を作り家族に迷惑をかけ続けているんだが、ただのダメ親父ではない。ギャンブルと同じ位映画が好きで、観た映画をすべて感想ノートにつづる几帳面さも持ち合わせた愛すべき爺さんなのだ。そのゴウちゃんがいたずらのように仕掛けたある事が、あちこちに波紋を呼び、意表を衝く展開が続き、スケールは地球規模に広がって、ついには奇跡が起こるという夢のような楽しい物語なのである。ここまで書いて、一言で言えない訳がようやくわかった。常に変容し続ける物語、小さくまとまる話ではないのだ。仕事は楽しく、終るのが惜しいと思ったのも久々だった。ひとつ心配は上演時間である。この物語の重要な要素のひとつにメールでの応酬がある。舞台ではそれをナレーションでやるわけだが、眼で文章を追うスピードと得る情報量は、耳でのそれよりも何倍も何十倍もすごい。だからメールを短くしなければ芝居が長くなってしまうのだ。これだけは辛い作業だったが、カットにカットを重ね、今の状態にたどりついた。でも、まだ長いかもしれない。経験上、ページ数で大まかな時間は判断できるものだが、それは「そうね」とか「ええ」なんて台詞も一行として数えた場合だ。メールは、上から下までびっしり文字がつまって、しかも何行も続くのだから今までの経験は目安にならない。映画の場合はそれほどでもないが、演劇で三時間と聞くと抵抗感を持つ人が多い。ぼくもその一人で、何とか二時間半におさまるように、キネマの神様に祈っている毎日である。

◆ 演出の戯言
「想像力×創造力×〇〇〇」++  (演出:藤井ごう)

演劇は舞台上だけでなく客席をも巻き込んで、場を共有する媒体である(しかもこの効率化ばかり優先される世にあって、これ程非効率、非経済なものってそうはない)。共有するには他人を受け入れる必要がある。受け入れるには外に向かって開いている必要がある。言わば「寛容」=『他人の考えを想像して理解し、認めて、受け入れること』の必要。これこそ分断化が進む世界で、もっとも必要とされることなのではないか。その上で「出会い」がある。そしてこの劇場にもやっぱり「カミサマ」みたいなものがいる。そのカミサマは、客席と舞台が絶妙に絡み合い、溶け合う豊かな時間をニコニコと見つめている。いい出逢いを俯瞰して、まるで自分の手柄のようにニコニコと。その豊かな時間との出逢いの為に、日々人物たちを構築する、この地道な作業の上に、舞台とゆうお祭りはある。想像力×創造力×寛容さ=∞出逢いなんともどん詰まりな状況から始まる…なんとも不器用な人たちのお話…どうぞ最後までごゆっくりお楽しみください。とこのような事を書いたのが初演時2018年、そこからものの二年足らずで、世界はガラッと音を立てて変わってしまった。まさか「場」が日常の中で失われる(奪われる)事態になるとは。「場」の意味がこんなに大切に、貴重に、大きくなるとは誰も予想しなかった。「劇場」から灯が消える日がこんな形で来るとは想像もしなかった。国のトップを筆頭に据えた「他人に寛容になっている場合ではない世界」が驕る僕らに突き付けられたのだ。…昨年鬼籍に入られた希林さんの言葉じゃないが、自分を深める為にこの事態と、この障害と出会い、どう向き合い、どう思考し、何ができるだろう…。創り手である僕らは、この禍を経験した上で再び灯のともった「劇場」という「場」に参加してくださるお客様に何を手渡せるのだろうか。…問いはつきない。でも、この事態に客席と出逢い直せる作品がこの『キネマの神様』であったこと。これが運命のいたずら、神様のいたずら、実は奇跡だとも思っている。良質なフィクションは時代の要請に応え真実を捉える。劇場のカミサマも心配顔の奥は「ニコニコ」と満面の笑みだ。無観客ではどうしたって成し遂げられない世界をご一緒に、どうか心ゆくまでお楽しみください。そして「ああ、劇場にでかけてよかった!」と感じていただけたなら喜びは∞(無限大)!